その他
Jan 1, 2026
藤井 厳喜

藤井厳喜が、自らの俳句作品を紹介しながら、俳句の本質と自由な創作の姿勢を語る。木枯らし、時雨、落椿、冬銀河といった季節の風景を詠んだ句の数々を披露します。そして注目すべきは、「季語重ねはダメ」「季語は一つ」といった俳句の俗説を痛快に一蹴する語り口です。さらに、夏目漱石の「落ちざまに虻を伏せたる椿かな」を起点に、弟子の寺田寅彦が物理学で検証したという逸話を紹介。詩心と科学が交わる不思議な世界へと誘います。俳句の自由さと奥深さ、そして文学と科学の接点を知る貴重な内容です。
藤井が最高得点を獲得した一句は、視覚や聴覚ではなく「嗅覚」に訴える作品。田舎の農家で、日向に置いた筵で籾を干していた頃の記憶。その筵の香りが染み込んだ新米が送られてきたという、懐かしく温かな情景です。俳句というと風景や音を詠むイメージが強いですが、香りを詠んだ句は意外と少ないもの。だからこそ、嗅覚に訴える句は読み手の記憶を強く刺激し、心に残ります。五感のうち見過ごされがちな「香り」に着目することで、俳句の表現はもっと広がる可能性を持っているのです。日常の何気ない香りの記憶を、十七音に凝縮する。それが俳句の面白さであり、奥深さです。
「季語は一つだけ」「季語を重ねてはいけない」こうした"ルール"を耳にしたことがある人も多いでしょう。しかし藤井は、これを「俳句の先生が月謝をもらうための方便」と痛快に切り捨てます。芭蕉の「初雪や水仙の葉のたわむまで」には、初雪と水仙という二つの冬の季語が登場します。また「木枯らしや蝉の子大地深く寝て」という句で、冬の木枯らしと夏の蝉を組み合わせました。大切なのは季語の数ではなく、その句が「詩になっているか」どうかです。ルールに縛られて創作の自由を失うくらいなら、型を破ってでも良い句を目指すべき。自由に楽しむことこそが本質です。

小説『椿飛ぶ天使』は、夏目漱石の俳句「落ちざまに虻を伏せたる椿かな」を起点にした物語です。この句が想像なのか実景なのか。それを確かめるため、主人公は調査を開始します。そして驚くべきことに、漱石の弟子である物理学者・寺田寅彦が、椿の花のモデルを作って落下実験を行い、力学的に検証した論文が実在するというのです。詩人の感性と科学者の探求心が、一つの俳句を通じて交わる。真善美の「真」と「美」は、究極的には一致するという思想が、ここに具現化されています。俳句という十七音の世界が、科学の眼差しと出会うとき、新たな魅力が生まれる。文学と科学の接点を知る、知的好奇心をくすぐる逸話です。

「嗅覚の記憶」が紡ぐ俳句の原風景
日向筵の香りと新米——五感が呼び覚ます懐かしさの力季語のルールを超えて
芭蕉も破った「常識」と、自由に詠む勇気椿一輪に宿る科学と詩心
漱石と寅彦が証明した、真善美が交わる瞬間
季語のルールに縛られず、自分の感性で詠む。それが本来の俳句の姿なのだと改めて感じました。そして、『椿飛ぶ天使』のエピソードには心が躍りました。詩心と科学精神が一つの句を通じて交わるという事実は、文学と理系の垣根を超えた知的興奮をもたらします。寺田寅彦のような、詩を愛し科学で検証する精神。これこそが真の教養人の姿かもしれません。俳句は堅苦しいものではなく、五感を研ぎ澄まし、自由に言葉を紡ぐ遊びです。そして時に、それは科学の探求心とも響き合う。そんな俳句の豊かな世界を、もっと多くの人に知ってほしいと思いました。

国際政治学者。ハーバード大学大学院博士課程修了。日本のマスメディアでは決して報道されない、欧米政府が扱うレベルの政治・経済の動向、そして市民レベルの情報も踏まえて、文化、思想、宗教など多方面から分析し未来を的確に見抜くその予測能力は、内外の専門家から高く評価されている。
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